川島むーのお茶祭り日記

お茶祭り企画代表、川島むーの心に映り行くよしなし事を、あれこれと

山椒大夫を考える

本日は、京楽座『山椒大夫考』、中西和久さんのひとり芝居である。

 鷗外の『山椒大夫』から、その原点となった説教節や瞽女唄へ。語り、歌い、演じ、広がって行く、深まって行く山椒大夫の世界。鷗外の作品によって消されたものはなんだったのか、説教節を語った人々の思いは?そんなお芝居。
 たっぷりと、堪能させていただきました。ありがとうございました。

 中西さんのひとり芝居は、かつて、『しのだづま考』を観ている。
 それまで思っていたひとり芝居とは違う。語り、解説し、一つの物語を様々な角度から見せて行く、と言う手法。あぁ、こういうやり方があったのだ、と思った。自分がやりたいのが朗読ではなく語りであることに気が付いた。ただストーリーを伝えたいのでは無く、解説の部分をやりたいのだと、それをこんな風にひとり芝居という形で出来るのだ、と。目から鱗と言うか、道を示されたと言うか。そう、お茶祭り企画の語り芝居のヒントを与えてくれたものだったのである。

 という事で、他の作品を観たかったのだ。ようやっと、今回の公演を観る事がで来た。で、やっぱり好きだなぁと思う。芝居として、というのももちろんだけれど、この説教節の世界が好きなのだわ。横浜ボートシアターの『小栗判官 照手姫』も大好き。どちらも竹のこぎりで首を引くシーンがあるのだが、中西さんのは、リアルに怖く、ボートシアターのは、怖くとも明るく祝祭の雰囲気で終ったなぁ。どっちにしろ、ほんまに恐ろしい刑やな。
 鬼への興味、まつろわぬ者への興味、民俗学への興味、みんな私の中で繋がっているのだな。と言う事は・・・

 やっぱり、私の目指す方向は、綺麗な衣装で綺麗な舞台に立つお洒落な役者、ではないのだろうな。もっと、もっと、地に足付けたい。人に近いところに立つ役者でありたい。

 そんなことを思う帰り道。日の落ちた駅前では、南米の音楽。民族楽器と言われるものに心惹かれるのも、同じ思いなんだよな、と思う。綺麗に整えられた音ではない、大地に近い音が、風に乗って行く。心地いい。