さて、維新派「透視図」の感想。
いやぁ、やっぱり内橋和久さんの音楽は素敵。生演奏の贅沢。時々、内橋さんのいらっしゃるブースの方を伺ってしまっていたのでした。下手側客席に座って下手サイドを伺うから、左隣の人と視線がクロス。いや、申し訳無い。
それはさておき・・・・・・
維新派は、物語で解釈する芝居ではない。多くは短い言葉の重なりあいでイメージを伝えてくる。その中に、要所要所で会話がなされていく。
なので、まずは感じる事を優先。パンフレットは観終わってから読んだのだが……読んでいて、泣きそうになった。うん、ちゃんと、自分の中に届いていたんだなと思う。こんなに説明しにくい舞台なのに、ちゃんと伝えたいイメージが伝えられている事のすごさを、改めて感じたのでした。
と言うことで、感じた事あれこれ。
まずは、あの会場立地、あの借景は見事。中之島や梅田のビル群の夜景を背にしたそこで繰り広げられるのは、まさしく大阪の、水都の物語。
正方形の舞台が16個、碁盤目状になっている。その間を歩き、走り、繰り返される動きと言葉。
大阪には、なんとたくさんの島の地名がある事か、と改めて思う。水都。そこには満々とした水の流れがある。大阪市章は水路標識のみおつくし。
南の島や西の半島からやってきて陸の島に着いた人々。その象徴のような少女ヒツジ。それはもちろん、ついこの間の歴史。役者達の群唱する数字は19××から20××へカウントアップ。現在との陸続きを示す。
でも、もっともっと古い歴史でもあるよな、と同時に感じる。大阪の海がもっと内に広がっていた時代の。島の地名はその名残り。大阪は、古くからモザイク都市。水を通して繋がるあっちからもこっちからも人が、文化がやってきて、交わって来た土地。
川をさらうガタロは、川そのもの、いや大阪そのものか。へこたれない大阪か、それとも、現代の中で根っこを見失っている事への警鐘か。……などと言葉にするのは陳腐か。でも、描かれるのは過去だけでは無く、今、現在を確かに象徴していた。
色々考える一方で、ただただ、そこで展開する維新派のリズムと繰り出され繰り返される言葉と動きに魅了される。走る少年達。気が付けば碁盤の目の舞台には満々たる水。16個の島。あ、この動きは初めて見た。飛ぶ!飛ぶ!いやもう、誰か一度くらいは、しまったチャポンとなるんじゃないかと思うが、軽やかに飛んでいく。
満々と満ちる水の中を行く人々。行ってしまうな、と言う思いは、維新派に向けてか、積み重ねられてきた大阪そのものか。
大阪と言う街が愛おしくてたまらなくなる舞台。維新派と言う劇団を誇りたくなる舞台。
一方で、なんだか東京化しようとしていたり、東京目線での大阪(ケンミンショーとかお笑いとか)になろうとしていたりする、今の大阪への不安を覚える舞台。
ああ、やっぱり言葉にするのは難しい。観て欲しい、と思う。大阪の人には観て欲しい。いや、あっちからもこっちからも、大阪にやってきて観て欲しい。維新派そのものを感じて欲しいと思うのでした。
個人的な趣味で言うと、もうちょっとごちゃっとした瞬間があってもいいのかなと思ったけれど。どちらかと言うと整然としていた感じ。まぁ、屋台村のごっちゃり感があるからいいのか。
追記
パンフレットは大きな正方形の一枚の紙がたたまれて、小さな正方形になっている。
つまり、開くと、小さな正方形が4×4の16個。舞台と同じです。うむむ。