もしイタ観てきました。本家本元の青森中央高校演劇部による『もしイタ〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら』
開演前の舞台上には既に役者たちがいて、喋ったりアップしたり。そして舞台奥には、彼らが公演を行った被災地の様子がスライドで流れる。
これは、東日本大震災を受けて生まれた舞台のひとつ。被災地に出向くことを考えて作られたこの作品は、衣装も照明音響もセットもない。役者たちはジャージで常に舞台上にいて、時に役で、時にモブで、あらゆるものをあらゆる音を身体だけで表現し、演じ、歌い、跳ねる。
それは、演劇の根本に立ち返った作り方、見せ方。阪神淡路大震災の時、演劇人は水汲みしかできないのか、と悔しかったことを思い出す。
30人近い高校生が演じる舞台は、高校生らしさと、舞台ならではの面白さと、震災の犠牲者を悼む思いに溢れておりました。
噂には聞いていたけれど、参った。参りました。
円周率ラップ?あれ、高校生じゃなきゃ、出来ませんな。
顧問であり脚本・演出の畑澤聖悟さんのアフタートークでは、東北だけれど被災していないと言う微妙な距離感でのもどかしさ。もう震災はいいでしょうと言う声に対するもどかしさが語られる。
語り継ぐことの難しさ。
この演劇部の1年生は、震災時小学校3年生。既に、記憶の薄れている世代。
けれども、演じ続けることで、先輩から受け継ぐことで、彼らは確かに語り継いでいる。それは、単に2011年の震災のことではない。たとえ2011年が遠くなっても、この国が、地震や台風などの自然災害にさらされている地であることにかわりはないのだ。
喪失感に打ちのめされ、無力感に苛まれ、それでも歩き続けなければいけない人がいる地なのだ。
だから彼らは、熊本でも上演をする。
若者達が、学び、向き合い、受け継いで行くことが、そう出来る作品であることこそが、この作品の力である、魅力である。
1995年の震災で被災した伊丹の地で、そんなことに思いを巡らしたのでした。
高校生へのワークショップも拝見。ほぼ、「歩く」のワーク。わざわざ申込んでいるのだから、そりゃあやる気のある高校生達です。でも、だからこそ、ノリノリで浮かれてたり、私やってますやれてます的な姿も見えたりする(笑)。でも、その余計なものが、瞬く間に剥がれ落ちていく、いらんもんの入る余地はなくなって、30分後には、すっと美しく、舞台上を歩いているのでした。
歩くこと。ただ、舞台上で歩くこと。それだけで見せること、魅せることがいかに大切か。
そうそう、アフタートークで畑澤さんがおっしゃってたな。一人一人が物語を持つようにと言っている、と。それを聞いて、すごく、得心が言ったのでした。モブとして舞台に居てても、それぞれに表情がある。集団で動きつつ、自ら考えて動いているってこと。意思を持って舞台に立っている。そういう事だな、と思ったのでした。
先日の楽市楽座の萌さんの姿と言い、真摯に舞台に立つ若者たちの姿に、背筋が伸びる思いの私でありました。