川島むーのお茶祭り日記

お茶祭り企画代表、川島むーの心に映り行くよしなし事を、あれこれと

30年

 水も食料も大事だけど、とにかく、携帯トイレ。あと、マスク(これは、今は常備してる人が多いかな)。1ヶ月後にボランティアで神戸に入った時の実感。
「三十年前に大っきい地震があったんやで」と小学一年生。
「うん、よお知ってるね」
「おばあちゃんな、お母さん守るためにこうやったんやて」と、我が子を自らの身体で守る姿を見せてくれた。
 もう、この子たちのお母さんじゃなくて、お祖母ちゃんの方に年齢が近い私(^_^;)。
 と言う話を社員スタッフさんに言ったら「私、2歳でした」
 まぁ、そうよね(;^_^A。
 親が経験した、と言う世代から、更に次の世代へ。どう経験を伝えて行くのか。
 このあたりが大阪では被害が大きかったことを、子供たちは家や学校で教わってるのかな。
 去年から詠んでいる「名前ラジオ」と言う作品にも書いているのだが、身近な馴染のある景色が壊れ、その中で5000人を超える人が亡くなったことに、足元が崩れる感覚があった。
 一か月後にボランティアで神戸に入った。焼けあとに「無事です」「○○にいます」の手書き看板。「戦争」そんな言葉が頭に浮かんだ。一方で、自分自身には大きな被害はなく、神戸の母の実家も無事だった。どこかが傷ついているのに言えないもどかしさ。
 15年目に、自分の中にたまっていたものをようやっと作品にした「センチメンタル・じゃあに~」。まさかその翌年に東日本大震災に会うとは思わなかった関東暮らし4年目。大阪に戻ってきて2年目に大阪北部地震地震を避けられない人生なのか(夫の伯父に当たる人は福井大地震で帰って来なかった)。
「センチメンタル・じゃあに~」は毎年1月にどこかで詠んでいたしSNSやブログにも載せていたのだが、昨年から止めている。能登の状況を考えると、今は違う気がする。
 そんなことをグルグル考える。30年目。