川島むーのお茶祭り日記

お茶祭り企画代表、川島むーの心に映り行くよしなし事を、あれこれと

短歌と単管

 先日、オフィス再生の『暗室の窃視者』を見てきました。

 美術とか役者の居住まい、つまりはビジュアルは好き。
 台本は?と問われると、嫌いではない。が、やっぱり、観念的なのはちょっと苦手かな。
 貨幣の代わりに言葉が、と言う設定は面白いのだけど、それが、ストンとこちらに落ちてこなかったのです。実感を持てないまま、観念として理解しながら付いていく感じ。
 多分、私は、リアルな手触りが欲しいのだろうな。
 名前が付く事で存在する、と言う話なら、『奇跡の人』のアニー・サリバンの「物には名前があるの。どうしたらあなたにそれを伝えられるの?」と言う、ヘレン・ケラーと世界を繋ごうとする叫びの方が、実感を持つのです。
 だから、これは、好みの問題。
 あ、二人称を渡そうとする女には、お前死ぬぞ!と、ずっと胸が痛かったです。これは、多分、自分の経験から。逆なんだが。
 ……んと、ね……自死って、自分の目の前にあるものを消す行為なんだと思うのね。自分にとっての二人称を(三人称も含めて)消してしまう行為。ああ、消されてしまったんだ、と、あとからじわっと傷付いた記憶。
 だから、二人称を手放してしまう事の結果は、容易に想像できてしまって、思い出してしまって、痛かったのでした。
 ビジュアルは、いいなぁと観ていたのですよ、ほんと。林立する単管、ではなく上からぶら下がっている大量の単管。その中を行きかう役者たち。立ち姿が美しい事は、それだけで、芝居を成立させてしまうなぁと思うのでした。
 芝居中につぶやかれるあれやこれやの短歌。短歌→単管?え、ダジャレ?と思った私は、なんか、間違ってましたか?