復興カレンダーを使い続けるのは、忘れないため。あの日から、10年。
あの日(とその翌日から)の断片。
あの日(とその翌日から)の断片。
国会中継を見ているさなかでの速報、先に揺れ始めた国会、不安げな議員さんの顔が見えた次の瞬間にテレビが消えた。
今も、揺れは覚えてる。パニックを起こしている部分と冷静に次の行動を考えている部分と。
相方に帰宅をするなと伝えたこと(会社の同僚の実家にお世話に)、翌日、帰ってきた時の姿、物が消えたスーパー、学童の子供たち、東京出張からそのまま幕張に応援に駆り出されて大阪に帰れなくなっていた妹、公演の中止、原発事故、毎日チェックしていたモニタリングポスト、子供たちの外遊びをどうするか、何が安全で何が安全ではないのか。
自分に子供がいたら、連れて大阪に避難していたかもしれない。横浜にとどまったのは、やっぱり学童の子たちがいたからかな。ここに子供たちがいるのに、離れられない。彼らの存在に助けられていたなと思う。
2011年3月11日、明かりの消えた街。横浜市戸塚区。
雲に隠れているけれど、画面左の方には富士山がある。
横浜。東北から近くはないけれども遠くはない場所。直接的な被害はなくても、只中にいた時間。その距離感故のもどかしさを吐き出すように、詩を書き続けた。だから、あれは記録。
「誰も亡くなってないんでしょ」「そこは無事なんでしょう」と言われれば何も言えなくなる。そんな位置故の思いの記録。
現地で撮られた写真からわき上がる思いで書いたものもある。
大阪に戻ってからも、ふいに、書きだすことがある。まだ、終わっていないのだと思う。自分の中のおさまらない思い。
去年の3月に書いた「記号」もそのひとつ。
多分、そうやって、書き続けるのだろうな。