川島むーのお茶祭り日記

お茶祭り企画代表、川島むーの心に映り行くよしなし事を、あれこれと

6年

 6年です。
 あの日から、色んな事が大きく動いた。自分の生き方も。
 ざっと 振り返ってと思って書きだしたら、あ〜、なんかダラダラと長くなってしまった。
 読んでもらうと言うより、自分のための振り返りだな、これは。

 6年前の今頃は、まだ何も知らない。何も知らなかったあの時に戻らせて欲しいと言う感覚は、22年前にも散々味わった。それがようやっと薄れてきた頃に、まさかもう一度大地震に会うとは思わなかった。
 今ではすっかり日常となった鍋炊きご飯。節電と言うより、停電がきっかけかな。美味しかったし。
 とは言え、炊飯器はまだ、家の片隅にある。私が調子悪い時に、旦那が鍋炊きをする根性が無いかもしれないので(苦笑)。
 あの日の夜は楽園王『楽屋』の本格的な稽古のスタート日。晩御飯を用意して、台本の用意をしてワクワクしていた。
 テレビでは国会中継。ふいに聞き慣れない音が飛び込んでくる。画面に地震速報の文字。一足先に画面の向こうが揺れ始め、こちらも揺れ始める。あ、なんかこれ、まずいぞ。いよいよ来たかと思う(とっさに、ああ、だから早く関西に戻りたかったのよ、と思っていた気がする)。画面の向こうで、不安げに辺りを見回す議員さんの顔、ブツン、画面ブラックアウト。
 あ、停電だ。
 揺れは激しくなる。阪神淡路の時の下から突き上げる揺れではなく、横揺れ。掻き回される感覚。
 阪神淡路の時は、地中奥深くから、何者かがせり上がって来る感覚があった。形を与えるとすれば、それは確かに、竜だった。
 東日本のそれは、大きな手の上で揺すられる感覚。西遊記に出てくる、孫悟空を止めたお釈迦様の手のイメージ。
 机の下に潜りこんで、恐怖にかられる一方で、あの食器棚が倒れたらどう動くべきか、揺れが落ち着いたら携帯を取って来ないと、懐中電灯は?ラジオは?電池は?動けるようになった瞬間にすることを考える。冷蔵庫の中のものをどうするか、クーラーボックス出せるかな、伝言ダイヤルは171……、泣きそうになりながら、冷静に考えている自分がいたのがおかしくもある。
 どのタイミングでか、携帯を手にして机の下に。当然ながら相方に連絡はつかない。朝、見送った姿を必死で思い出す。あれが彼を見た最後の姿になるのかも、と言う覚悟もしないといけないのか。外の状況が判らないし、とっさに浮かんだのは、やはり阪神淡路の光景。
 けれど、ようやっと机の下から出て見渡した外は、拍子抜けの平静さ。少なくとも建物の倒壊は無い。富士山にも変化は無さそうか。屋根の修理中だったお家では、作業が再開されている(おっちゃんが落ちていないかと心配していたのだ)。
 明るい時間であったが故に、まだ余裕があった。けれど、それは、阪神淡路の時の夜が明けて行くのとは逆に、このまま夜を迎えると言うこと。それはまずいな、と思う。
 マンションの同じフロアは私以外は誰もいないことを確認。1階のおばあちゃんが「電気がつかないんだけど、これ、どこに言ったらいいのかしら?」と仰るので、恐らく、すぐには復旧しないこと、一帯が停電していると思うので、今の間に懐中電灯を用意しておいた方がいいと伝える。
 玄関にはドアストッパーがわりのダンベル。
 余震は、どれくらい来ていただろう。もう、記憶に無い。パソコンは充電分でどれくらい持つのだろうと考えていたな。ラジオをつけ、携帯はなんとかメールは送れる。タイムラグは発生していたが。
 まさかの川島家は、大阪にいたのは母のみで、父は新幹線の中、妹は東京出張中。イタリア在住の姉には連絡が付くのか?
 全員無事の確認が取れたのはいつだったのかな。ほっとする。我が家の被害は玄関の花瓶がこけて水が……と言うくらい。
 クーラーボックスを出して、保冷剤をぶち込み、食材保護。
 旦那と電話が通じ、とにかく無理なら、そのまま帰って来るなと。でないと、帰ってくるまで心配でおかしくなる。確実に滞在できるところがあるのならそこへ。と言うことで、相方は会社の同僚の方のご実家へ。
 外が暗くなってくる。


 写真は、1枚目が2011年、2枚目が翌年。ともに18時ごろの写真。
 
 夕食は、どうしたかなぁ。ガスは止まらなかったから、何かあっためたのかな。記憶があいまい。
 この日は出勤日ではなかった学童が気になる。やはり、戻って来られない保護者がいる。相方は帰って来ないし、歩いて行けない距離ではないから「行こうか?」と言うも、「何とかなりそう」と言うことで、状況だけ教えてもらう。お泊り覚悟で布団などを用意していると言う。
 暗いし寒いし。懐中電灯の電池ももったいないから、もう寝てしまえ!とラジオ片手に布団に入るも、寝付けるもんじゃない。と、ブォンとどこかで気配。あ。これは。
 ブレーカーを上げる。おお、電気ついたぞ。あれ、ちょっと不思議な感覚だったな。ほんと、自分の家だけじゃないから、あたり一帯で、止まっていた時間がふいっと動き出し、ひそめていた息をほっと吐きだしたような気配。一気に、色んな音や動きがバタバタと伝わってくる。
 あれは21時ごろだったのか。テレビをつけ、多分、この時はじめて映像を見たのだと思う。寝るつもりでいたのが、もう、寝れるもんじゃない。パソコンを立ち上げ、当時はmixiしかやっていなかったので、そこで無事の報告。171は、いつ使ったっけ。開設と聞いてすぐに伝言を入れたと思うのだが。
 学童からの連絡も入る。23時ごろに、最後のお迎え保護者が到着して、無事子供たちは親の元へとのこと。ほっとした。多分、学童保育と言う仕事の意味を、この時痛感したのだと思う。守らなければいけない子供達。彼らが守られていると言うことが、働く親御さんたちにとってどれほど心強い事か。多分、学童保育と言う存在が、あの時の私をしゃんとさせてくれたのだと思う。
 と言うことで、6年前の今日をざっと振り返り。
 大阪に戻って初めての3月11日です。